*** 小さな革命 (トッズ愛情EDverA後) 月から日へと移り変わる直前の時間の朧な光は、広がる景色の中を満たして、全てのものの境界を滲ませる。遥か彼方の山の稜線も、朝の気配を捕らえて飛び立つ鳥の形も、若く柔らかな足元の草むらも。 露に濡れた空気の中、道のない道を歩く、私と彼の姿も。 不意に空の底を這うように、何かが伝わってきた。 私は半歩先を行くトッズの顔を見上げた。特に変わった様子は見当たらない。繋いだ手はそのまま、鼻歌でも歌いだしそうな気楽な調子で歩いている。 気のせいか、と思いなおした時だった。もう一度、遥か遠くからかすかに、けれど体の中までじんと伝わるような音が届く。 周囲を見回すものの、どの方向から聞こえてくるのかはまるで掴めない。 ……なんだろう。 「ん?どーしたの、レハト。さすがにくたびれた?」 きょろりと首を回した私を見下ろして、トッズが尋ねてくる。 「…なにか、音が」 「音?……ああ、そういや言われてみれば」 「遠雷かな」 「いんや。こりゃ鐘の音だよ。神殿の」 思わずあたりに目をやる私を見て、トッズが苦笑する。 「心配しなくても人なんか通らないって。こっから一番近い村でも、半日は歩く距離だから。風の具合かな。魔物のお遊びかな。天使の采配かな。たまにあんの、こーいうの。遥か彼方から鐘の音が聞こえてくることが。こんな時間にわざわざ鳴らすって事は、あれね、お弔いの鐘かね」 トッズはそろりと首をすくめて、地平の先に視線を投げた。 「どこかのどなたかが、お山に向かわれた様で。それを皆に知らせてんのさ」 また、音が届いた。流れた星が尾を引くように、細く、長く。 先に旅立つ人を見送り、残された人々が悲しみを分かち合う為の、悼みの鐘だ。 思わず足を止めた私に手を引かれて、トッズも立ち止まる。 「……思い出した?」 問われて、黙って頷くしかなかった。 母が死んだ時にも、聞いた音だ。 繋いだ手を握る力が、ほんの少し強くなった。応えるように私も指先にほんのちょっと力を込める。 途端にトッズがへらりと笑った。嬉しそうに。 お腹の底にじんわりと、熱が広がる。けれど安心した次の瞬間、その温かさに不安がとってかわる。 ゆるく繋いでいた指先が抜ける。 「トッズは、いくつなんだっけ」 思わず零れた台詞に舌打ちしたくなったが、出てしまった言葉は取り消せない。 「ん?俺言わなかったっけ?若さ溢れる二十歳。働き盛りの男盛り」 「まあ私よりも年上か。少なくとも。とりあえずは」 「え、何その微妙に含みのあるお返事」 「長生きしてね」 出来るだけ軽く聞こえるように気を遣って言葉を投げたのに、そんな小細工はやっぱり無駄だった。黙ってしげしげとこちらを見つめる目に、つい視線を逸らす。何を馬鹿なことを言ってるんだろう、私は。 けど、こうなったらもう言葉を濁しても仕方がない。 「私は、あそこに呼ばれちゃうんだって。……寵愛者、だから」 夜明けだ。見上げた頭上に散らばる星も、目覚め始めた空の主に呑まれて、ちらちらと弱い光を瞬かせるだけ。 空はアネキウスの庭だと誰かは言った。いや、神の宮殿の光なのだと、別の誰かは言った。どちらにせよ、そこは神様の傍らだ。神様に愛されているらしい私は、私達は、ここでの生を終えればそこに呼ばれ、星になるのだと。 ある者は山より天に至り。 ある者は山より地に還る。 「母さんはお山にいったけど、私は、そうはならないって聞いて残念だったから。だったら出来るだけ長い間、一緒に、」 そこまで吐き出したところでいきなりぺん、と額をごくごく軽くはたかれた。うつむいていた私の前にいつの間にか回り込んでいたトッズは、叩いたその手の親指でつい、と徴のあたりを撫でる。反射的にびくりと身を竦めた。そこは嫌だと何度言っても、隙あらば触ろうとするんだ、この人は。 両手で額を押さえて睨む私の視線をいつものにやにや笑いで流したトッズは、ふ、と口元から力を抜いて、くしゃくしゃと私の前髪をかき回す。 「『そなたに徴を授けよう』」 予想外の台詞を、しかもなんだか神妙な声を聞かされて、驚く私を置き去りにトッズは続ける。 「『それは王たる証。我の手にある冠は、そなたの額に輝かん』」 「……え?……「ルラントと神との盟約」?」 「でしたかね」 「なんでそんなの暗誦出来るの?実は信心深いの?」 「聖書の一説だろうと問屋の壁の落書だろうと、何でも覚えとくとね、色々便利なこともありまして」 「便利って、具体的にはどんな時に?」 「今とか」 頬をごしごしと優しく擦られて、にっこりと微笑みかけられた。 「死んだ後でも俺が一緒じゃなきゃ嫌だって、可愛い駄々を捏ねてくれる最愛の奥さんに、そんなこと気にしなくてもいいって説明してあげられる、とか」 泣いた子供を慰めるみたいに。 「あの神様のお庭にはさ、偉い人しかいけないんでしょ。王様とか。えらーい大神官とか、物語に出てくるような英雄とか。で、王様はともかくもさ、将来大神官になる約束の徴とかさ、英雄の素質を持つ人間にだけ現われる決まった痣とかさ、ないよね。ね?ほらほら、よーく考えてみな」 「……つまりは」 トッズが言いたいことはわかる。 「徴は、神様の庭送りの条件じゃない?」 「よくできました。……しかしね、庭送りって。牢屋送りじゃあるまいし」 「似たようなもんだよ」 「似たようなもんだな」 即座に納得してもらえた。 「今までの徴持ち……寵愛者は、一人残らず王様になった訳だから、そう言ってもずれはなかったけど。神の国への切符を手にしてんのは王様って職に就いた人であって、寵愛者様じゃないんじゃないのかね。でなきゃ、神官だの英雄だのまで招かれる道理がないでしょ。神様に認められるぐらいの功績残すような人生しか、評価されないんじゃないんですかね」 トッズは言葉を重ねる。淀みなく、楽しそうに。当たり前のことを説く調子で。 「『今こそ見よ。彼の頭上に輝くは神の徴。世の支配を任じられた証なり。』……レハトは、まあ、模範的な寵愛者様とは言えないわな」 貶すような言葉に反して、なんだか愉快そうだ。 「何せこんな俺ひとりの為に、導くべき民も守るべき国も何もかもを放り出してくれた訳だから。職務放棄ってやつ?わざわざあそこに招かれるようなさ、そんな資格はないんじゃないの?」 そう言ってトッズは、空を見上げて、人の良くない笑顔を浮かべた。 ついさっき頭をよぎった聖書の一説の、その続きを思い出す。 ……お前たちは弱く、小さな者である。それ故に、私はお前たちを哀れもう。 「だからさ、そんなことで不安になんなくてもいいよ」 しかしながら、恐れることはない。 「きっと、俺とお前のいくところは一緒だから」 今再びお前たちはこの地上へと甦り、今再び命を得ることができるのだから。 「万が一俺が先にあっちにいっちゃったとしても、ちゃんとそこで、お前を待ってるから」 それが神と人との約束である。 私には、この人との約束があればいい。 同じところを帰る場所にして、毎日おはようを言って、おやすみを言って。一緒に食事をして、名前を呼んで。そうやって生きていこうと、そう約束した。 それは私がかつて知っていて、失ったものだ。彼が初めから知らなかったものだ。そんな暮らしが手に入るなら、それだけでいいと思っていた。二人で生きていくこと。 それだけを望んでいた筈なのに、気がつけばその先もと願っている。 自ら捨てた筈の神様の言葉に、それを逆手に取るという形で、縋ってでも。 ……なんて欲の深さだろう。 けれど、その浅ましさが、愚かさが、弱さが。 どうしようもなく愛しくて、嬉しくて、誇らしい。 弔いの鐘の音は、いつの間にか途絶えている。 神様はまだ、まどろみの中にいる。 月と星とが見下ろす中、私達はふたりきりで立っている。 弱く小さな私達には、繋いだ手を離さないでいるだけの力しかない。 他には何もないけれど、その力があればいい。 私達はふたつの影を一瞬だけ重ねて、もう一度歩き出した。 "Far beyond the stars" 2010.06.23 全ての王配エンドとヴァイルに謝罪しやがれって感じ。 英字タイトルはヘンリー・ヴォーンの詩「平和」……を引用したらしい、スター・トレックのサブタイトルより。 |