*** 何も考えられない

(トッズ印愛35以上:「告白」「息抜きのお誘い」以前)

 王都から遠く北方、穀倉地帯に隣接する土地には、雪というものが降る。
 神に追いやられた魔の所業。白一色に世界を埋めんとする、冷たい呪い。

「……って言っても、あればっかりはやっぱ、実際に行かないとわかんないかなぁ」
 トッズはそう呟いて、湯気の立つカップに口をつけた。五杯目だ。三杯目のおかわりを所望された時点でポットごと持ってくるよう頼んだのは正解だった。気を利かせた侍従が綿入りの保温カバーも一緒に持ってきてくれたので、当分冷める心配はない。実は物凄くお茶が好きなんだろうか。あとこの人の辞書に遠慮という言葉はあるのだろうか。
 とは言えトッズの喉に負担をかけさせているのは僕なので、何を言う資格もない。広間の前で行き会った彼に、暇なので何か話してくれとせがんでみたら、交換条件としてお茶とお茶請けを要求された。妥当な取引なのかそうでないのかはよくわからないけど、お互い納得しているのでいいんだろう。あと辞書に遠慮の言葉がないのは、多分僕も同じだ。
 彼はいつも、色々な話をしてくれる。今まで国中を回って見てきたものの話。地理誌を読んだだけでは伝わらない印象や、そこに住む人の生活ぶりや喜怒哀楽。まあ、多少の脚色があったり虚実取り混ぜたりはしてそうだけど、そういったことを話す口調や表現の中からちらほらと伺える、トッズ自身の物の見方や感じ方もとても面白い。トッズの話を聞くのが、僕はとても好きだった。
 この国中の景色を、言葉だけで僕に見せてくれる。
「奮発して上物の兎鹿毛織の上着とマント調達して着こんでたんだけどさ、それでも体の芯に水を注ぎ込まれたみたいに震えが来てね。いやー、ありゃ本当参ったわ」
 トッズは陶器のカップを両手で包んで、ふわ、と息をついた。僕の手元にあるものと同じ大きさの筈なのに、トッズの大きな掌の中ではなんだか小さく見える。
「そんなに寒いって、具体的にはどういう感じ?」
「んー。そっか、まあそうよね」
 遠くを眺めるような目つきで、トッズが僕の目を見る。
「そうねぇ。そうだなぁ。レハトもさ、川遊びぐらいしたことあるでしょ。天気の悪い日にぐっしょり濡れたままで更に木陰に入って体拭かないまんまでいなきゃいけなくて、おまけに冷たい風まで吹いてきたーって感じ?体温を根こそぎ奪われるような。その冷えが、どれだけ服を着込んでいても絶対に体から抜けてくれない」
 聞いているだけで勝手に体が震えた。同情してくれる?とこちらを上目遣いで見上げるトッズに、僕はうんうんと頷く。それは、辛い。
 「指先も足先も冷え切って血が通わない。顔も強張ってまるで動かない。頭の中が寒い寒いって、もうそんだけでいっぱいになっちゃって、気持ちも体も寒さに縛られる。人が暮らしてるような場所はまだよかったよ。熱がある。光もある。でもね、宿屋の窓からね、見えるんだ。どんな命も根付けない雪原が」
 トッズの声を聞きながら、想像してみる。降り続ける雪に封じ込められた白い世界。厚い雲に覆われて、神の加護である光も届かない場所。
「もうねー、見渡す限りの白。まるで空を覆う雲が地面まで降りてきたみたいな、そんな在り得ない光景。地平線と空の境も、曖昧にぼやけてる。果てが見えない。吐く息まで白く染まってる。自分がつけた足跡もすぐに降ってきた雪で埋まっちゃう。だから振り返ると、前も先もわからない」
 何の標もないまま進む先も見失う、その絶望感に目が眩みそうになる。
「あそこは、人の力の及ばない場所だ」
 どうすればいいのか、できるなら、それが。
「知りたい?」
「え?」
 ごとり、と心臓が音を立てた。
「雪原地帯。見たい?」
 重ねて問いかけてくるトッズから、不自然にならない程度にゆっくり視線を外した。お茶を一口飲んで、暖かな温度が胃に降りてくるのを、意識して感じるように努める。
「……いいよ。今もう話聞かせてもらったから、十分」
「そう?レハトさんってば、実に大真面目な顔で聞いてたけど?」
 ちらりと視線を上げたら、トッズはいつものにやにや笑いを唇に浮かべていた。さっきの目はなんだったんだろう。妙に真剣な目で見られた気がしたけど。
 ……きっと、気のせいだ。意識しすぎだ。
「だって物凄く寒いんでしょ。やだ。絶対行きたくない。そんなとこ行けても絶対建物の中に引きこもるよ僕は」
「わー。ものっすごく力強い宣誓ですこと」
 ぱちぱちと半ば呆れた顔で拍手をするトッズに構わず、僕はもう一口二口お茶を飲む。余計なことを口走りそうになる口を塞ぐ為だ。
 僕が知っている雪原地帯は、今トッズが説明してくれた様子だけ。なら僕にとっての雪はそれが全てだ。それでいい。そのままでいい。
 トッズがくれた言葉だけでいい。
 そんなこと、言えたもんか。

 彼には彼の人生があって、それは僕のものとは交わらない。
 だから、何も言えない。

 突然ぐいと目の前に伸びてきた手がカップを取り上げた。いつの間にか空になっていたそれに、トッズがポットから新しいお茶を注いでくれる。ほこほことあがる湯気が、急に何かの幸せの象徴の様に思えてなんだか泣きたい。
「じゃ、この王城がそんな北の果てになかったことを喜ばなきゃね、寒がりのレハト様?」
 暖かなカップを渡されて、僕はありがとうと礼を言って微笑んだ。
「そうだね、本当に良かったよ」
 この上天候にまで振り回されるなんて冗談じゃない。

 雪が、僕の体の底にしんしんと積もる。彼が教えた想いと一緒に、伝えられない想いも道連れに、何もかもを呑み込んでいく。
 だからこんなにも、寒くて辛くて仕方がない。

 なのにカップを受け取る時に触れ合った指先の熱に、一瞬で胸の奥が焼けた。
 ああもう、恋なんてちっとも楽しくない。


"Color of the Sight"

2010.01.08

中日告白イベントを延々スルーしているレハト。もちろんお見通し。