*** マーブルマッドパーティ:赤青五日



「トッズ。ここ、その、もっと分かりやすくしたほうがいいんじゃないかな」
「ん?」
 冷夏なのだと言われても、夏は夏であるという、それだけでもう暑い。午前中から既に本気モードの太陽に炙られて、陽炎立ち上る住宅街を抜け、フラフラの頭でようやくたどり着いた冷房の効いた店内では、「彼」が白シャツに黒のギャルソンエプロンという、コントラストが眼に眩しい格好で「僕」を待ち構えていた。しかも長袖シャツ。
 思わず、日光に晒されて熱を持った自分の二の腕をさする。
「あれ、冷房キツい?ごめんごめん、ちょっと緩めるわ」
 それまでこれでもかけてて、と、何処からか引っ張り出してきた布を渡された。広げて見ると薄布のショールだ。ありがたく羽織っておく。
 柔らかな布を汗のひいた身体にふわりとかけて、キャメル色の革張りソファに思い切り身体を沈めた。シートに投げ出した手の甲に、ひやりと滑らかな革の感触が気持ちいい。少しすれば室温に身体も馴染むだろう。朝目が覚めて、窓から差し込む強い陽光を見た瞬間から、今日は一日この店で過ごしてやると決めた。
 見上げた遠い天井では、シーリングファンの翼が回る。じっと見ていないと動いているのにも気がつかないぐらい、ゆったりと空気をかき回している。
 カウンターから出てきたトッズが「はい水分補給」と大きなタンブラーグラスと、お冷やの二つのグラスをコースターの上に置いて、そのまま向かいの真っ赤なソファによいせと腰を降ろした。まだ何も注文した覚えはないんだけど、特に文句はない。
「で?分かりやすくって?」
「ボード出すとか。情報誌に載せるとか。せめて店名を表に出すとか。もうちょっとお店っぽく」
 木立に覆われて隠されているような坂道を下ってしばらく歩くと、この店はある。けれども店だとわかるのは店だと知っているからに他ならない。知らずに見た人が抱くだろう感想は、多分、箱。用途を考えれば、倉庫。しかも現役では使われていないだろう類の。中に入れば多少お店らしくはあるけれど。多少。
 辛うじて外観でわかる店らしさと言えば、そこだけが妙に味のある古材で造られた、重い扉にかかっている「OPEN」の札ぐらい。
 店名さえ表に出ていないのはどういうことだろうと以前「彼女」に尋ねてみると、「お店の名前?無いの。特に不自由もしてないし、じゃあまっいいかーと思って、で、そのまんま」とのお答えだった。
「あ、嬉しいなあ。それって単にお気に入りのカフェの店主ってラインを通り越して、懐事情まで心配してくれるぐらいにレハトが俺に関心持ってくれるようになったってことだよねー」
 ここいつ来ても他のお客居ないもんねー。いつでも俺とレハトの二人きりー、とトッズは間延びした声で笑う。
 笑顔でいていいことなんだろうか。眉をしかめた僕の顔を見て、トッズはますます笑みを深くした。
「心配してくれてありがとね。でもまあ、大丈夫よ。大繁盛って訳じゃないけどさ、まあこんなとこでもそこそこお客は来てるもんだし。レハトが会わないだけで。夜も開けてるしね」
「そうなの?」
「そうなの。夜はね」
 カウンターに引き返したトッズは、中の戸棚からごんごん音を立てながら色取り取りの硝子瓶を引っ張り出す。赤、緑、琥珀色、群青色、白、黒。
「こういうのをカウンター席手前にずらーっと並べるワケ。ま、レハトにはまだそっちの方がいいかな」
 そっち、と示されたタンブラーの中身は、どう見てもたっぷりミルクが注がれたアイスミルクティーだ。口をつけてみると、濃い目に淹れたのだろう紅茶の香りがふわりと鼻をくすぐる。優しい牛乳の甘さの中に、砂糖でもシロップでもない、ほのかに香ばしい別の甘さが混じっている。
「何が入ってるの?」
「黒蜜。気に入った?」
 気に入った。どこか誇らしげなトッズににっこり笑って見せて、なんだかほのぼの懐かしい甘みのミルクティーを、半分ほど一気にごくごくと飲む。暑い日の冷たい甘い飲み物というのは、どうしてこんなにありがたいんだか。
「それは何より。……というか、レハトは俺の出すもんなら何でも気に入ってくれんだもんねー。今のレハトのうち何パーセントぐらいが俺で出来てるんだろ」
 後半はほぼ独り言のような口調になっていた。声の方を向いてみれば、トッズはカウンターに肘をついて、こちらをニヤニヤ眺めている。
「パーセントって何さ」
「たとえば、それ」
 手の中を指差されて、僕もグラスに視線を戻す。中に気泡が混じったりしていない、澄んだ氷がぷかりと泳ぐ。
「氷。H2Oね。レハトの喉を通って胃に入る。消化される。牛乳もタンパク質。あと糖分。そいつらが、アミノ酸やらブドウ糖に分解されて吸収されて、あるべきところに振り分けられて、廻り巡ってレハトの血や肉や骨になるわけ。今でもその綺麗な指や爪の先や髪の一筋ぐらいは、ここで飲み食いした分かもよ?レハトってば好き嫌いせずなんでも嬉しそうに食べてくれるし。初めて会った時はちょっと顔色悪くって心配しちゃったけど、今は眼もぴかぴかしてるし肌もつやつやしてるし、最近は栄養が満遍なく行き届いてる感じ?うん、俺ってば偉い。レハトの青春の日々の充実に貢献してるね」
「……トッズ……。いつもそんなこと考えてご飯作ってるの……?」
「栄養のバランスに、誠心誠意気を配らせて頂いているのは事実ですよー。飲食業の基本ね、これ」
 お茶だけ飲みに来たつもりだったのに、結局昼も夜もここで食べてしまったりもしているので、何も反論できない。一日の間に食べたものが、全部ここで出されたものだったりすることもある。ここで出されるご飯は、本当に美味しいから。単に味がいいとか好みだとか、それだけじゃなくて。
 ……誰かとのんびり話しながら摂る食事は、ちゃんと、味がわかる。
「んー。まあ、でもそれ以外のとこについても、ちょっと考えちゃってるかもなぁ」
「え、なんの話?」
 ふと逸れた思考を、声が引き戻した。慌ててトッズの方を向く。何か聞き漏らしただろうか。
「レハトさんの言った「そんなこと」ね、考えてるの。ここで出す飲み物と食べ物、それ以外の他のものについても」
「……ええと、よく話が見えないんだけど。何?お店の雰囲気とか?」
「まあその辺は、わりと好きにやらせていただいてますけど」
 トッズはぐるりと店内を見回した。つられて僕も視界に映る、不揃いな景色を見渡す。確かにやりたい放題だ。ソファに座ったまま身体をひねり、背後に置かれている硝子のはめ込まれた飾り棚を眺めていると、不意にすぐ傍から声が届いた。
「更に、それ以外かな。レハトと過ごす甘ーい時間のこと」
 振り返ると、真向かいのソファにトッズが座っていた。身体を動かした拍子に、身体を包む薄紅色のショールから、バターと、あと何かの花のような、いい香りがふわりと立ち昇る。
「俺は、ほらね、この通りお喋りだからさ。で、レハトはいっつも素直に楽しそうに聞いてくれるでしょ。まあ大部分聞き流してる顔はしてるけどさ、本当はちゃんと聞いてくれてるでしょ。後で前にしたお話のネタとか振っても、変な話も妙な話も、ちゃんと覚えててくれてる。それで余計なことついつい話過ぎちゃうこともあるんだけど。思っちゃうんだよね。レハトはこの話を聞いて、何を思うのかなーって」
 トッズの指の先には、煙草が挟まっていた。煙が揺れる。青味がかった煙が、ゆっくりと立ち昇る。
「声は口に出せば消える音。語られる物語は、切り取られた事象の断片。だけど、聞き手が何を思うか、感じるか、連想するかってのは、もうその話を受け取った人間の中のことだよね。話した奴の意図に関わらず、最終的には」
 先ほどまでは無かった筈の金属の灰皿に、とん、と灰を落として、トッズは話を続ける。
「人間の身体は飲み食いしたもので作られてるけど、その中身はどうなのかな。置かれた環境か、生来の性質か、まあその辺は一概に言えるもんでもないと思うけど。十年前の記憶が、今日の選択を決めるかもしれない。百年前に起きた事件が、今生きてる誰かの何かに影響してんのかもしんない。そんなことを思うとね、考えちゃうワケ。ああ、目の前のこの若さ溢れまくるお子さんは、何を今考えてるんだろなー、って」
 僕の胸元を、小さな火が指し示す。
「俺が話したことや、ここで過ごした時間が、レハトのどっかをつくってるってんなら面白いなあって。そう思うの。要するに、その可愛らしい胸の奥のほんの一部にでも俺を住まわせてくれてるってんなら、トッズさんもう大喜び」
 ね?と首を傾げて懐っこく笑うその顔は、初めて会った時から見慣れる程に見てきた、いつもの顔だ。初めて会ったときから、ちっとも変わらない顔。どこまで本気なのかわからない軽口も、最初からずっと変わらない。
 思わず本当にそう思っているのかと問いただしそうになって、慌ててグラスに唇をつける。

 朝目が覚めて、窓から差し込む強い陽光を見た瞬間から、今日は一日この店で過ごしてやると決めた。それは単に、冷房や食べ物が目当てという訳じゃないことは、自分でもわかってる。
 いつの間にかここに居ることが、普通になっている。
 当たり前の顔で僕を出迎えるトッズに会うことが。

 遠い天井で、ゆっくりと翼が回る。舌の上には、黒蜜の甘さが残る。
 グラスの中では、ミルクティーの淡い色に、溶けた氷の水が滲みこんでいく。
 音も立てずに。


"erosion/effect"

2009.12.12
言っちゃあなんだけどここ既に商売してないよね。