*** マーブルマッドパーティ:黒白五日


 雨がぱらぱらと傘を叩く。うっかり濡らした指先が、水気を孕んだ空気にひやりと撫でられ、じんと冷える。唇から吐き出す息が白く煙っているのに気がついて、少し驚いた。
 ほんの少し前までは、いつになったら夏が終わるのかと、毎日じっとり汗ばむ肌にうんざりしていたのに。駆け足で秋の花も散っていった。もう冬だ。
 薄ら明るい雲から、細い細い冷たい糸が降り注ぐ。足元から伝わる冷気に、そわりと背筋が震えた。
 家が、木々が、世界と空との境界が。全てが曖昧に灰色に滲んでいる街の中を、足早に歩く。普段はもう少し人通りのある場所なのだけれど、こんな空の下では、すれ違う人もいない。皆、きっと、どこか暖かな場所で過ごしている。
 世界中で最後に生き残った人類になったような奇妙な錯覚は悪くなかった。さみしさと不安と人恋しさと、かすかに不思議な満足感。
 何時の時代から建っているのかわからないような、年季の入った家が立ち並ぶ一角を抜けて、細い路地に入る。いちいち思い出すまでもなく、足は勝手に何度も歩いた道筋を辿った。馴染んだ道だ。
 ぽつぽつ、と傘を叩く水音と、掌に伝わるその振動を道連れに、歩く。
 見知った、けれども雨の空気に浸ってまるで知らない場所のように感じられる景色の中、視線を右手に逸らす。雨と埃と苔の色に塗り潰された石造りの壁と、密やかに呼吸をしているような樹木達の陰に隠れて、小ぶりな白い石塔が倒れていた。昔は大事にされていたのだろうが、今では蔦と雑草に覆われて、忘れ去られている。丁寧に施されていたのだろう彫刻も、無残に磨り減っていた。
 そのすぐ横に、緩やかな、けれども細い坂道へ続く道があった。せいぜい人一人通るのが精一杯なその細い坂を通らなければ、目的地にはたどり着けない。
 両脇からそっと道を抱くように覆いかぶさる木々の枝を、透明なビニールの天井越しに見上げながら、ゆっくりと道を下る。
 その先に、あの店がある。



 よいしょ、と重い扉を半ば体全体で押し開けると、柔らかな白い光が部屋の中から零れた。こじ開けた扉の隙間からするりと潜り込むと、ふわりと体中が、暖かな空気と、甘い匂いに包まれる。
 幾つもの白熱灯に照らし出された店内は、相も変わらずごちゃごちゃとしていた。飴色に光る古びたコッファーの上には、非常に適当に本が並べられている。というか積み上げられている。革表紙の古書も、背表紙が日に焼けた文庫も、最近出た新書も、ついでに写真集も雑誌も、何もかも一緒くたに。
 混沌としているのはその一角だけではなく、店内のソファもテーブルも、やたら置いてある植物も、どれ一つとして同じ種類のものはない。一応は販売用に陳列している(と聞いたけれど、どう見ても単に置きっぱなしに見える。値札もついていないし)各種雑貨にも、全く統一性がなかった。アンティークのアクセサリーのような古いものが多いけど、鉱物の原石もごろりと置いてある。何に使うものか見当もつかない奇妙な形の瓶もある。
 それでもただ乱雑にとっちらかっている、という風には一度も感じたことはなかった。ロフト席を設置出来るぐらいに天井が高いおかげで閉塞感が殆ど無い、という理由もあるんだろうけど。
 多分、このごちゃつきっぷりにも、何かの基準はあるんだと思う。それが何かは、よくわからない。でもここの店主には、その基準はわかっている。ここの、二人の店主には。
 そしてこの場所は、なんだかとても居心地がいい。
 多分、それで十分だ。
 カウンターを見ると、長い金髪を編んで結い上げた『彼女』が、こちらを見て微笑むところだった。黒のエプロンに白いシャツの何時もの格好。
 『彼女』なら、今日は『私』だ。
 彼女の笑顔につられるように、私も、にっこりと微笑む。
「こんにちは、トッズ」
「レハト!ようこそ!こっちいらっしゃいな」
 こっちこっち、と手招く彼女に従って、幾つものソファと机と、鉢植えの植物と、床に直接積み上げられた色々な物を避けながらカウンターへ向かう。ようやくたどり着いて、茶色の柔らかい革が張られた、背もたれつきのスツールに腰掛けた。隣の席の苔色のモケットが濡れないように気をつけながら、少し傘からはみ出して、はしっこが濡れてしまった鞄を置く。やっと、人心地ついた。
 はあ、と息をつく私を、トッズはにこにこと満面の笑みで眺めている。
「んふふふふ。嬉しいなー。こんなお天気の日でも来てくれるなんて。そんなに私に会いたかったー?」
「こんな日だから、だよ。もう冷えちゃって冷えちゃって」
「あら」
 する、と細い指が、私の指先をきゅっと掴む。ずっと店内に居たのだろうトッズの手はとても暖かかった。真っ白な指の先で、淡いピンクに塗られた爪が、光を虹色に反射する。
「あれれ、本当。かわいそうに。ね、何飲む?あったかくて甘いものでも淹れましょうか」
「お願いしまーす。程ほどに甘いのだと嬉しいでーす」
「はいはい、ほーんのちょっと待っててねー」
 くるり、と身を返してトッズはカウンターの中で、ぱたぱたと動き始めた。慣れた仕草でミルクを用意し、とろりと金色が詰まった小さな硝子瓶を取り出す。茶葉を掬う仕草も、乱暴に見えるぐらい迷いがないのに、とても丁寧だ。ぼんやりと一連の動作に見惚れているうちに、すっと目の前に湯気を立てる翡翠色のマグが差し出される。
「はい、どうぞ。こっちのお皿は、可愛い常連さんにサービスでーす」
 たん、と目の前に置かれた白い皿の上には、黄金色につやつや輝くスコーンが二つと、茶色のシフォンケーキが乗っていた。濃淡二色の、綺麗なマーブル模様。その脇には小さなココット皿に苺ジャム、林檎のジャムが詰められて、更にその横にはクロテッドクリームとホイップクリームまで添えられている。ホイップクリームの上にはミントの葉まで飾られて、どう見ても、サービスの方が本気だ。
 でも文句なんてありっこない。ここで出されるものは何でも美味しいのは、とうに学習済み。
 早速、かぼちゃが練りこんであるんだろうスコーンに手を伸ばした。さくりとふたつに割ると、胡桃とレーズンが一緒に混ぜ込まれているのが見える。ほかほかと湯気を立てるそこに、クロテッドクリームを銀のナイフでたっぷり塗りつけ、一口かじる。口の中一杯に広がるバターの香ばしさと素朴な甘みに、思わず口元がほころんだ。もぐもぐと暖かなスコーンを飲み込んで、蜂蜜が溶かされたミルクティーに口をつけてこくりと飲むと、じんわりとお腹の底から、体全部があたたまる。
 ……多分、私は今、物凄く幸せそうな顔をしてる。
「レハトってば、何でもものすごーく美味しそうに食べてくれるから、見てるだけで幸せになっちゃう」
 やっぱりしてた。つん、と鼻の先をつつかれる。
「食べさせ甲斐があるわ」
 にこり、と口元を吊り上げて笑うその顔が、ほんの少し怖い。美人が笑うと迫力が出る。知人にも一人そういう美人がいて、彼女が本気で微笑むと、正直その場から逃げ出したくなるぐらい。
 いや、でも、それより。
「それこないだ、もう一人にも言われた……」
 そう言うと、トッズの眉根が思いっきり寄せられる。
「うわ。アレのことだから『むしろ美味しそうに食べてるレハトを俺が美味しく頂きたいなぁ』ぐらいのことは言ったでしょ。あーやだ!自分で言ってて心底ムカついた!ふざけんじゃないわよあのエロヒゲ、私のレハトに何をぬけぬけと!」
「うん、そう、一言一句その通り」
 しかもすごく似てた。
「いやそれより、私そんなに食い意地張ってるかな……」
「そんなことないわよー、私の作るものが何でも美味しいせいよ」
 ちっともレハトのせいじゃないのよ、とトッズはふるふる首を振った。
「ね、あのアレの話なんかどうでもいいのよ。今日はゆっくりしていける?ね、ちょっとだけ待っててくれたら夕ごはんもご馳走したげるんだけどなー。美味しそうな海老が入ったの!アボカドとチーズと一緒にしてカンパーニュのサンドイッチはどう?それともさっとソテーにして、バジルと一緒にサラダもいいかも。あ、カレーソースと卵でキッシュでもいいかなー」
 聞くだけで、満たされたばかりのお腹が減ってきた。もう食い意地が張っていると言われてもなんでもいい。
「ね、何がいい?美味しいご飯を食べながら、ゆっくりお話しましょうよ」
「……ここに来ると、いつも餌付けされてるみたいな気持ちになるなぁ」
ぽろりとそう零すと、すうっと、トッズが目を細めた。

「そうよ?」

 そうしていつものように、柔らかく微笑んで、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
 なのに、いつもと全然違う。

「たっぷりのご馳走で誘ってね、まるまると太らせて、そうして甘ーく幸せに育てておいて」

 すっと白い手が伸びてきた。トッズの親指が、私の唇の端を拭う。

「最後のひとしずくまで、残さず美味しくいただくの」

 引いたその指を、赤い舌が、そっと舐めとった。固まっている私に見せ付けるように。見ようによってはあどけなく微笑んだ顔の中で、その目にだけ感情が乗っていない。
 そこだけが、もう一人のトッズと、完全に同じものだった。
 二人のトッズは、とても似て見えるけれど、やっぱり男性と女性で、同じ訳がない。体の線も輪郭も髪も声も身長も違う。似ていても、違う。相似点はあっても、共通点はない。

 だけど、この眼だけは。
 世界中の夜を見てきて、その色を映し出したような、底の見えない黒い瞳だけが。

 ……なんで今まで気がつかなかったんだろう。

 長い睫が、ゆっくりと、瞬く。


「……なんてね?」

 不意に張り詰めていた空気が、ふわりと緩んだ。
「んふふふ、呑まれてた?見惚れてた?ああもう、本当にレハトってば可愛いんだから!まあ、ちょーっと脅かしすぎたかしら。ね、ごめんね?」
 お詫びに美味しいものたっぷりつくるから、待っててねー、とひらひら手を振って、トッズはカウンターの奥に入っていった。
 何時の間にか肩に力が入っていた。ぎくしゃくと腕を上げて、自分の肩を抱く。眼を瞑ると、最後に眼に入った彼女の金色の後れ毛が、瞼の裏で踊った。
 ……この店の中に居ると忘れてしまいそうになるけれど、扉の外ではありとあらゆる物の熱を奪うような、冷たい雨が静かに降り続いている。
 そういえば、ずっとそうだった。そんなものだった。


 二人の『トッズ』。
 交わした賭け。
 『私』と『僕』。
 一年間の期限。


 忘れているふりをしていたかったし、気がつかないふりをしていたかった。
 けど、やっぱり、そうもいかない。
 私は瞬きをひとつすると、濡れた唇の端を親指で拭った。そうして再びマグを手に取り、残っていたミルクティーを飲み干す。
 ほんの少し冷めた紅茶は、底の部分に蜂蜜が溜まっていたようで、何かの未練のようにひどく甘ったるかった。


"female/fatal"
2009.11.18
なんだこの話。