*** 手探り

(アネキウス暦7381年)

「ああ、ちょうど良いところに戻った。これを持て」と、そう言われて、渡された籠と袋と壺を素直に受け取ってしまったのが運の尽きだった。

「なんだ。まさかやったことがないとは言わぬだろうな」
「言いませんが」
「なら何をもたついておるのだ。ほれ、早く餌をつけろ。糸を垂らせ。大きい方を釣った方が勝ちだ」
 さくさく歩く子供に先導されて来たのは、海へと川が流れ込む、その境の場所だった。川の対岸は霞む程、遠くにある。
「汽水域を間近に見るのは初めてか?」
 着くや否や手頃な大きさの石に、さっさと腰を下ろしたリリアノに視線で促された先を見れば、座り勝手の良さそうな流木が転がっている。転がしてあるのだ。
「川に暮らす魚達も、神の目の届かぬ海では生きられぬ。が、それ故にここには魚が溜まる。入れ食いだぞ」
「……もしや、あちらの」
 石と流木の後ろには、囲むような形で石が積み上げられている。明らかに人の手によるものだ。
「釜戸を組まれたのは」
「我だ」
 リリアノは何故か無駄に胸を張って答える。
 渡された袋の中身は干した虫入りの小瓶、籠には飲み物の入った瓶と平たく焼かれたパンが詰められている。壺は空だが、要するにこれは魚籠か。
「まさかランテの隠された主、次代の王が、軽食抱えて呑気に釣りに出ているとは誰も思うまい」
「ご自身でおっしゃいますか、それを。次代の王がわざわざなさる遊びではないと思いますが」
「あはははは、そう思うか。お主も遊びだと思うか。我は毎回真剣だぞ」
 びゅん、と竿がしなり、糸が水面の上を飛ぶ。さらさらと流れていく水の立てるさざめきを割って、落ちた針がぽちゃん、と音を立てた。
「用意させた食事を無駄にするのも、料理人に悪いのでな。釣りに出る日は晩の食事は用意させておらぬ。釣れなければパンのみの夕餉だ」
 水面を見つめるリリアノに気取られないよう、そっと籠の底を検分してみれば、砕いた岩塩と乾燥させた香草がご丁寧に革袋に詰められて仕舞われていた。大き目の籠の底に敷かれた金属板はなんだか使い込まれた風情で、ひょっとしなくても調理用であろうことは推察できた。
 来い、と命じられて仕方なく隣に立つ。何をしておる、座れ。と命じられて仕方なく流木に腰を下ろした。竿を渡されてはもう仕方がない。
「まあ、遊びではあるが。魚にしてみれば、遊びにされるのもたまらぬだろうな」
 投げた針はリリアノが針を落とした位置よりも、かなり遠くへと飛んだ。
「命を、捕らえて、食らい、我が身にする。王に相応しい行為だと、そう思わぬか?」
 まだ分化を迎えていない子供の声質は、軽い。空気を震わせる男の低い声ではない。耳に心地よい女の高い声ではない。そのどちらにも足りない。しかしどこまでも澄んで、響き渡るような声。
「……こら。そんな顔をするな。所詮は言葉遊びだ」
 どんな顔をしろというのだ。今、ここで、そんなことを言われて。

「ここにはもう来ることもあるまい。来週には、我は城に上る。城は湖の中にあるというが、さて、釣りなど許してもらえるかどうか」
 彼の言うとおり、明日明後日には王城からの使いが来るだろう。露払いは自分がした。
 命じたのは彼だ。子供の声で。王の声で。
 三代目の、彼の主の、次の王として。
 新たな彼の主として。

「来れて良かった」
 ぽつりと、隣で零された台詞は年相応の子供の言葉だった。
「好きだったよ。ここが。とても」
 その言葉をこの場所に置いていく為に、自分は連れて来られたのだと、ローニカは知った。

 神は眠り、夜が近づく。せめて屋敷へ戻っては、と主張するローニカを無視してリリアノは慣れた手つきで火の支度を始めた。ローニカはため息をひとつつくと、潔く諦めた。寵愛者という存在は皆、方向性は違えど、基本的にはしたいようにしかしないらしい。
 魚籠から出した魚を小刀を使って手際よく絞めていく。最後に残った一回り大きな魚を手にすると、いつの間にかリリアノがしげしげと、手元を覗き込んでいた。
「……なかなか見ぬ程の大物だな。お主の獲物か」
「では、勝負は私の勝ちですね」
「なんだ、忘れておらなんだか。ローニカお主、実はなかなか大人げないな。大人の癖に」
「勝負だとおっしゃったのは貴方でしょう。それに」
「それに?」
「……二人合わせたとは言え、釣果が良いに越したことはないのでは」
「まあ、それはそうだ」
 リリアノは神妙な顔つきで頷いて、そのままの顔で呟いた。
「食いっぱぐれずに済んでよかったな」

 これがきっと、最初で最後だ。
 この生が終わる時まで傍に居たとしても、貴方に勝てることなど、もう何一つない。


2010.07.31


コンビ投票支援とか見当外れのお祝いとか(人様のネタで…)。